ペーテル・バルトーク(著) / 村上 泰裕(訳)
A5判 464頁 上製
定価 4,400円 (内消費税 400円)
ISBN978-4-7998-0119-2 C1073
在庫あり
奥付の初版発行年月 2013年08月 書店発売日 2013年08月08日 登録日 2013年07月04日
サウンド&レコーディング・マガジン
評者:横川理彦 |
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NHKラジオテキスト まいにちロシア語
評者:児島 宏子 |
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図書新聞
評者:上川修史 |
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山形新聞 | |
朝日新聞
朝刊 山形版 評者:戸田 拓 |
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週刊読書人
評者:小沼 純一 |
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レコード芸術
評者:太田 峰夫 |
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ムジカノーヴァ | |
STEREO | |
日本経済新聞 朝刊 文化面 | |
音楽鑑賞教育
評者:佐野 靖 |
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産經新聞 |
教科書にも登場する大作曲家バルトーク。その息子が、独自の視点から父の死までを詳しく書いた。親族による記述では初の邦訳。これまであまり知られていなかった背景なども書かれている。書簡集や当時の貴重な写真も収載。
ハンガリーの大作曲家バルトーク。その作品はいまなお世界中のオーケストラやオペラハウスで上演されている。その大作曲家の後半生を、次男ペーテル・バルトークが詳細に記述した。バルトークが普段どういう生活を送っていたか、どのように作曲活動をしていたか、どんな性格だったのかなどを、愛息ならではの視点で紹介している。また、著名な音楽家との交流の様子も出てくる。バルトークは第二次世界大戦でナチスの侵攻迫るハンガリーからアメリカに亡命。著者も追って渡米する。当時の緊迫した様子や、一般の人々が混乱する様子なども描かれている。米国での困窮の事情や、支援する音楽家達の行動などについても詳しく述べられている。また、これまで知られていなかった亡くなる直前の状況や、作品ができた背景、バルトークのライフワークだった民謡収集作業についても詳しく書かれている。親子で交わした大量の書簡集と、数々の貴重な写真も収載した。
日本語版へのまえがき
まえがき
第一章 幼い頃
第二章 住まい
第三章 ブダペスト 1932〜1940年
第四章 山歩き
第五章 アメリカ
第六章 民族音楽
第七章 音楽作品
第八章 どんな人?
書簡集 父ベーラから息子ペーテルへの手紙
第一部 ヨーロッパ
第二部 アメリカ
訳者あとがき
本書の舞台となった主な場所
主要人名索引
メニヘールト・レンジェルの原作に基づくベーラ・バルトークの《中国の不思議な役人》が、1951年9月6日にニューヨーク・シティセンターで米国初演された。プログラムの最初の曲ではなかったので、聴衆の一人として曲が始まるのを待っていると、後ろで誰かが隣りの人に話しているのが漏れ聞こえてきた。「ベーラ・バルトークってのはハンガリーの作曲家で、この国に来て餓死したんだ。」ある記念日に父の作品だけを取り上げた音楽行事で、誰かが挨拶で父は民謡の収集に非常に多くの時間を費やしたと語った。その上で、民謡は田舎の村を旅して収集したもので、父がその思い出を人生の至福の時だったと語ったことを挙げ、「ベーラ・バルトークが人民の音楽を好んで集め、人民と共にいる時に幸せだったということは、現在生きていれば『人民民主主義』を支持したはずです」と結論づけた。
私は数え切れないほどの機会に、気楽に、あるいは真剣な目的で、父が「どんな人だった」という質問をされた。こうした質問に私はいつも困るばかりだった。誰か知り合いの人柄を、愉快とか怠惰、神経質や頑固といった言葉で一括りにすることはよくある。だが、質問した方がグラスに半分のマティーニカクテルを空けるほどの時間で父のすべてを説明しようとしても、どう言っていいか分からなかった。私の答えが十分だったかは疑わしく、そもそも私自身が満足していない。
最初に紹介したエピソードは、明らかに父の本当の性格や態度を表していない。本書の目的の一つは、こうした無責任な話に反論することである。また、一人の人間であり、父親であり、音楽を仕事とした父ベーラ・バルトークの生活がどんなものだったか紹介することも、目的の一つである。いくつかの曲が生まれた背景についても、私が直接知り得た範囲で盛り込んでいる。
父が1945年に亡くなった時、私は21歳だった。それまではハンガリーの家で暮らし、14歳で寄宿学校に入った。16歳の時、両親はハンガリーを去ってアメリカ合衆国に渡った。私は二年後にニューヨークで両親と合流したが、その後の数年間も、なかなか父とは暮らせなかった。父の人生の最後の数ヶ月を除いて、私が一年半を米国海軍で過ごしたためだ。そうした中で、父は私に40通あまりの手紙を書き、その大部分が現存している。手紙には父がその時々に直面している問題や行動が記されていて、そのおかげで私は当時のことを鮮明に思い出すことができる。それらの手紙は本書の「書簡集」に収録してある。それ以外の父に関する印象や記憶は、当然ながら一人の子どもの目線で見たものである。(後略)
教科書にも載るハンガリーの大作曲家バルトーク。クラシック音楽が好きな方なら一度は作品を耳にしたことがあるでしょう。ピアノの練習曲も有名で多くの人々に親しまれています。
この偉大な作曲家であり父親である、ベーラ・バルトークを、次男ペーテル・バルトークが息子の視点で書いたのが本書です。バルトークの日常生活における考え方のユニークさや斬新さ、音楽家ならでは苦心など大変興味深いものがあります。
ハンガリーでの充実した生活は第二次世界大戦で一変。戦渦から逃れるためにアメリカに亡命します。著者のペーテルは両親の亡命から遅れ、苦労してアメリカに着きます。ハンガリーでの生活との違いに驚き困惑し、苦しい生活だったようですが、家族間の豊かな絆は途切れることがなかったようです。
そんな苦しんでいるバルトークに支援する人々も現れます。有名なクーセヴィツキーは強制的に先払いでの作曲を依頼。その成果が、バルトークの代表作の1つ「管弦楽のための協奏曲」です。ほかにも、レコード会社が「レコードがたくさん売れた」ことにして高額の印税を支払ったりと、周囲の人々は支援を惜しみませんでした。しかし、バルトークは病に倒れます。そして、ペーテルは父バルトークの死を見取ることとなります。
大作曲家がどのような人物だったのか。家ではどんな夫であり、どんな父親だったのか。貧しさが原因で亡くなったという噂は本当なのか。それらが、すべて本書に書かれています。また、著者のペーテルが両親と離ればなれになっている時や、米国での従軍中にバルトークから送られてきた大量の手紙も、書簡集として収載しました。その他、民族音楽収集時の写真、住んでいた家の写真、コンサートの様子、家族の写真など貴重な写真も掲載してあります。
第二次世界大戦前の豊かなハンガリーの人々の様子や、戦争が迫ってきた時の動き、どこへ逃げたらよいのかの戸惑い、そして戦時中のアメリカなど、当時の人々がどのような生活をし、どのような社会的変化があったのかもよくわかる内容になっています。
在庫あり
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