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文化を楽しむ出版社

【第7回】勝連城跡(かつれんじょうあと)

 2009-09-11   

 勝連城跡は、勝連半島の付け根付近の現うるま市にある城跡です。日本で言えば鎌倉の頃からの遺物等も残っていますので歴史は古いと思います。またこの城跡は琉球政府時代から発掘が始まっているので、沖縄の中でも古くから発掘調査されてきた城跡です。このグスクに関しては発掘調査の成果から、今の所、五つの郭があることは確認されています。でも、周りの地形を考えると、それ以上にあったのではないか? と思われます。そのため、現在でも発掘調査が行われています。

 このグスクは、良港に恵まれ経済的にも繁栄していたようです。そのため琉球史上、伝説に近い時代から重要な役割を担ってきました(今後、機会があれば話す事もあると思います)。その勝連城が琉球史上でが有名になったきっかけは、第一尚氏最大の英雄である阿麻和利(アマワリ)によってです。
 阿麻和利は、現在の嘉手納町生まれで、不幸な事に幼少の頃は身体に障害があったと言われています。自分で立って歩く事が出来なかったようです。で、この後、伝説は二つに分かれるのですが今回は一つ目の話をします。
 こんな子は役に立たない。そこで、親は遠い勝連の崖下に捨てた。ところが阿麻和利少年の障害は治り成長ししました。その後、クモの巣を見て漁網を考案し、それを付近の住民に教えたことから慕われるようになっていったのです。そんな事も影響したのか、当時の勝連城主である、茂知附(モチヅキ)按司(あじと呼び、階位の一つ)の家臣となりました。
 ある日、付近の住民が阿麻和利に「何かお礼したい」という申し出ををしました。彼は、これを好機と感じたのか、期日を指定して、城に向かってたいまつ行列をしてくれと頼みました。
 そして、指定した期日の夜。たいまつ行列を見た彼は城主の茂知附按司を「面白い光景が……」とグスクの一番高い場所に誘い込み突き落とし、城主となったようです。
 正史というのはたいがいそんなもので、話しを進める上、阿麻和利の存在を正当化したいがためそうなったのではないかと思います。ところで、この茂知附按司ですが、歴史にはでてきませんが自分が小さい頃に古老から聞いた話しでは、勝連半島東側にある、平安座島との戦いで勝利したとか。これって倭冦じゃないかな? と思っています。貿易上都合悪いですからね。

 この勝連城跡。発掘品からも分かるのですが、中国等と盛んに貿易を行っていたようです。また、当時の勝連は、第一尚氏王統からみても重要な役割を担っていたようです。その為、時の国王尚泰久は、娘の百十踏揚(モモトフミアガリ)に、重臣である鬼大城(ウニウフグスク)を守役に付けて阿麻和利に嫁がせます。その後の歴史では、阿麻和利が国王に讒言して中城の護佐丸を倒しました。さらにその後、阿麻和利の国王への反乱を知った妻の百十踏揚が鬼大城と共に首里へ脱出し報告したそうです。それに気づいた阿麻和利は、百十踏揚らを追うようにして首里城を勝連軍が攻撃するが大敗し敗走します。
 尚泰久王は鬼大城を総大将に討伐軍を勝連に派遣しました。勝連城は激戦の末落城、阿麻和利は城から逃げますが、直ぐに討たれたそうです。その後、勝連は長い間、首里の直轄領となります。残念ながら記録が少ないので断言できませんが、やはり、この地に新たな領主を置く事を躊躇したのかもしれません。
 最近は、阿麻和利評価も高くなっています。正史というのはそういうものかもしれません。
 最後に、ここで、琉球史上悲劇の女性と言われるのが百十踏揚です。彼女からみれば、父親(尚泰久)と夫(阿麻和利)が協力して、祖父(護佐丸)を倒します。その後、父親が夫を倒します。その後、守役であった鬼大城の妻になるのですが、その鬼大城も父親によって倒されてしまいます。理由は分かりませんが、歴史には残らない何かがあったのかもしれません。


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