スタイルノートスタイルノート

文化を楽しむ出版社

【第6回】護佐丸(ごさまる)周辺

 2009-07-25   

 ここで、少し護佐丸という人も含めて歴史関係をまとめてみます。

 沖縄初の統一王朝は事実上、第一尚氏の第二代国王尚巴志(ショウハシ)によって統一された第一尚氏(15世紀前半〜15世紀末)です。
 実はそれまで勢力を持っていた北山、中山、南山の3つの国もそれぞれ国王がいた国と言えます。なぜなら、3つの国がそれぞれ中国に朝貢していたので、一応国としての対外的体面を保っていたということになるからです。ところが、尚巴志は旧中山王である武寧王を倒し、さらに北山も南山も倒してしまい、尚巴志が沖縄の大きな実権を握ります。ここに実質的な沖縄全体を代表する国王登場ということになったわけです。この頃から、中山王=琉球王っていう図式ができたんだと思います。実際は二代目が活躍して得た地位ですが、父親が存命であったため、初代は父親、本人が二代目という形になっています。

 父親の思紹(ししょう)は沖縄本島の周辺離島である伊平屋島の生まれだったようです。子供の巴志は武勇に長けていて、北山を滅ぼし、南山を1429年に滅ぼしました。北山、南山とあった強大な勢力を滅ぼして手中に収めてしまったわけです。そのため、それからは沖縄から明国への使者は中山王である巴志からだけとなりました。ここに、沖縄の統一王朝ができるわけです。
 明国に前中山王を滅ぼしたことを報告した際に、前述の通り、父親がまだ存命であったため中山王の息子として進貢(冊封)の使者を立てました。
 そこで、明国は1430年。巴志を沖縄の唯一の王「琉球国中山王」と認め、「尚」の姓を授けました。そこで、尚巴志、尚思紹(追贈)が誕生します。この辺は明史に記述が残っているので、この尚巴志が初の統一王統と言う方が多いです。

 前回、築城の名手として紹介した護佐丸は武勇にも秀でていて、第一尚氏王統の立役者でした。そのため護佐丸は重用され、その娘は第一尚氏第6代国王である尚泰久王の王妃となったほどです。
 さらに、この第6代国王と護佐丸の娘の間に生まれた女の子が百十踏揚(ももとふみあがり)。この方は、本土で言う小野小町のような、と例えられる方でした。美人の代名詞ともされた百十踏揚は、勝連城主、阿麻和利(あまわり)に嫁ぐことになります。沖縄では珍しい、政略結婚だったかもしれません。この当時、勝連は貿易等で栄えていたようで、尚家としても強い結びつきを確保しておきたかったのでしょう。

 ということで、次回からは私の家からも近い勝連城跡の説明となります。

関連する投稿