今回は、第三代琉球国王の尚真王がつくった最後の琉球王家のお墓である玉陵です。 (続きを読む…)
沖縄文化財散策
【第12回】首里城(2)
さて、いよいよいよいよ正殿前に入ります。右手には板葺きの南殿、左手には正殿の朱塗りと同じ北殿があります。薩摩が侵攻する前は、南殿はありませんでいた。これは、薩摩統治下後の建物です。その南殿に入りましよう。 (続きを読む…)
【第11回】首里城(1)
いよいよ世界遺産に戻ります。今回は首里城(シュイグスク)です。ここには、守礼門(シュレイモン)があります。守礼の門と言う方が沖縄でも多いのですが、守礼門が正式名です。あとその守礼門の左側に園比屋武御獄(スヌヒャンウタキ)という拝所もあります。ここは国王も拝む場所でした。あ、書き忘れましたが、守礼門の真中を通れるのは国王だけでした。これは紫禁城でも同じだと思いますが、その他の方は右か左の方を通って首里城に入ったそうです。
それでは城内(グスクウチ)に入ってみましょう。中国との交流が深かったので、沿道には中国の使者が残した石碑が並んでいます。そして、正殿に入る為の発券場があります。昔は士族の皆さんの戸籍を管理していた系図座(中国風の家系図を管理する場所)がありました。沖縄観光で、首里城に来た際には、正殿に向かって右側にある植物が植えてある石囲いの場所も見て下さい。ここは、首里城にとって重要な場所でしたので復元しています。
実は、琉球国王になる為には、3つの承認が必要でした。まずは、周りからの承認。それと冊封制度の関係で中国からの琉球王国中山王という任命。で、最後は神様からの任命です。この神様は本島最北端の辺戸岬近くの岩山に、ウランサン(御傘)が降りてきます。わかりやすくいえばUFOだと思いますが(笑)。それが降りて来るそうなのです。これを確認した付近住民は早馬で、首里まで連絡したそうです。で、その神様はテレポートしながら、いくつかの拝所(ウタキ)を通過し、最後には、首里城の先程の拝所に入ったそうです。
で、そこに琉球王国の最高神官である聞得大君(キコエオオキミ)が行き、そこで神様が乗移り、正殿に入り国王を任命したそうです。沖縄の歴史で、この任命が受けられなかった国王は一人だけです。それが、第二代国王尚宣威(ショウセンイ)です。彼はショックで、半年程で亡くなりました。その時神様が任命したのが第三代国王尚真(ショウシン)です。彼はすごい名君となり、沖縄初の黄金時代を作ったと言われています。
最後に正殿に入ると真中の部分は浮道(ウキミチ)といわれます。ここも国王以外は通れませんでした。横にある赤煉瓦みたいなものは、正月に各地の領主がそこに参内し、国王から杯をもらう場所にもなってました。もちろん。一般住民は、発券所の所までしか入れませんでした。
続きは、次回に。
【第9回】浦添城跡(うらそえじょうあと)
今回もまた世界遺産から脱線した話しをしたいと思います。
浦添グスクは、現在の浦添市の丘陵部にあるグスクです。実は伝説に近いのですが、沖縄最初の王統は日本で言う古事記のような話しからはじまります。沖縄ではアマミキヨとシネリキヨという2人の神様が天帝の命で沖縄の島を作ったようです。でも、人間は居ませんでした。そこで、2人の神様は天帝に再度お願いし、天帝は自分の子2人を与えました。その2人が三男二女を生みました。
そこで、長男が国の王(天孫氏)、次男が按司(あじ)、三男が百姓の初めとなりました。さらに長女は最高神官である聞得大君(きこえおおきみ)、次女は村々の神官になったそうです。そして、この天孫氏の時代がなんと1万7千年続いたそうです。
しかし、12世紀末、その27代目の王を家臣の利勇(りゆう)が殺してしまいます。そこで当時人望の集めていた浦添按司尊敦(うらそえあじそんとん)を総大将として周辺の按司が集結し、利勇を滅ぼし国王となりました。これが初代琉球王統の初めです。
実は、この尊敦の父親が、源為朝なんだと言われています。為朝は保元の乱で敗れ、伊豆大島に流されました。ところが10年後青ヶ島を征服した帰りに台風に遭遇し、舟の帆柱も折れ漂流します。船員が焦る中、為朝は「人の運は天が決める事」と慌てなかったようです。で、漂着した島が流れ求めた島なので、琉球。たどり着いた入り江は運を天に任せて付いたので運天という地名になったそうです。
その後、為朝は南部大里の按司の娘と恋仲になり男の子が生まれました。で、為朝は本土に戻ろうとするのですが、舟をいくら出しても、上手く進めない。船頭は、「女が船に乗っているので竜宮神が怒っているんだ」と。そこで、泣く泣く為朝は妻と子供を残し帰っていったそうです。
その後、母子は、迎えに来るのをずっと港で待っていたようです。そこで、待つ港→待ち港→牧港。となったようです。こんな話しは地名学というようですが、自分は興味があります。今回紹介した浦添は、「浦々まで襲う」という説が主です。でも、自分は、勝手に恩師としている仲松弥秀先生の「浦々までウスユン」(島々全体を雌鳥が卵を温める様に抱いている)。という説の方が好きです。地名学って、結構面白いですよ。その後王都となる首里を中心に、南側は南風原。少し東側は東風平。で、北は西原。(あ、沖縄では北の事をニシというんです)。
おそらく皆さんの周辺でも。そんな地名の解明ができるかもしれませんよ。
【第8回】中城城跡(なかぐすくしろあと)
前回紹介した勝連城跡と相対し、琉球史並びに沖縄演劇でも度々登場するのが、この中城城跡です。このグスク全体が護佐丸によって築城された、と思っている方が実は県内でも多いのですが、 (続きを読む…)
【第7回】勝連城跡(かつれんじょうあと)
勝連城跡は、勝連半島の付け根付近の現うるま市にある城跡です。日本で言えば鎌倉の頃からの遺物等も残っていますので歴史は古いと思います。またこの城跡は琉球政府時代から発掘が始まっているので、沖縄の中でも古くから発掘調査されてきた城跡です。 (続きを読む…)
【第6回】護佐丸(ごさまる)周辺
ここで、少し護佐丸という人も含めて歴史関係をまとめてみます。
沖縄初の統一王朝は事実上、第一尚氏の第二代国王尚巴志(ショウハシ)によって統一された第一尚氏(15世紀前半〜15世紀末)です。 (続きを読む…)
【第5回】座喜味城跡(ざきみじょうあと)
世界遺産に戻りましょう。今回は、座喜味城跡です。
このグスクは、沖縄の歴史上最高の築城の名人と言われた護佐丸(ごさまる)が築いたと言われています。護佐丸って名前は、なんとなく日本風の名前で、珍しいと思います。 (続きを読む…)
