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文化を楽しむ出版社

沖縄文化財散策

【第16回】大山盛保さん

 2013-07-07   

 いきなりの人名。誰だろう?と思われると思います。実は、この方、遺跡を発掘して古い時代の人類化石を探したすごい方です。でも、発掘の専門家でもなんでもない、一般の方なんです。趣味で発掘をしていたということです。
 この方の最大の功績は、旧石器時代のほぼ完全な全身骨格(港川人)を発見した事です。時代で言えば約2万年前(諸説はありますが……)。これほど残っている骨格は、この港川人位です。今は教科書でも扱われている大発見でした。ただ本物は(たしか)東大で保管されていて、沖縄の博物館にあるものはレプリカです。 (続きを読む…)

【第15回】斎場御嶽(セーファ ウタキ)

 2013-03-15   

 さて、琉球王国のグスク及び関連遺産群の最後がここです。
 ここは琉球王国の最高神官である聞得大君(キコエオオキミ)の就任式を行う場所でもあり、王家が聖地である久高島を遥拝する場所でもありました。ここは本島内では最高の聖地。男子禁制どころか昭和の初期までは、一般女性でも禁制でした。現在でも入口付近に香炉が残っているのは、一般の人がそこから先に立ち入らずに拝んだという名残です。
 ちなみに沖縄では祭祀の主となるのは女性です。男子禁制はあっても女子禁制の場所はありません。そんな沖縄最高の聖地である斎場御嶽でも、男手必要とする場面もあります。例えば台風後の片付けといった力仕事などです。その際には着物を自分から見て右を上にして着て(通常の着物の着方と逆)作業をしたそうです。つまりは異形の者。として入ったようです。
 そんな聖域ですから。自分も畏れ多くて中には入ったことがありませんでした。ところが、学生の時、王族の子孫が同じ学科にいまして、彼と一緒に……、というよりも彼を案内って事にして初めて入りました。もっとも、今考えると国王でも入れたかどうか……。
 この聖地は、琉球王国の最高神官が就任する場所。そして王国では、政治と祭祀が密接に関わりあっていた。遺産として外せない場所だったと思います。
 と、ここまではいろいろなサイトなどを調べるとある程度わかりますよね。で、ここでも私が謎に思う点があるんです。それは、首里から斎場御嶽までの聞得大君の乗り物です。
 まさか徒歩ではなかったはずです。自分が目算しても20km位ありますからね。では、駕篭? 駕篭も使ったんだと思いますが、どうやら馬を使ったみたいなんです。そして、その馬は勝連間切(現在のうるま市勝連)の南風原集落の家から出したようなんです。その家は、代々最高神官が行幸する際に馬を出す家で、明治に最後の国王が崩御してお墓に安置する際まで馬を出したそうです。
 これがまた不思議だと思うんです。私なら、連絡大変なんで首里に家を移します。そう出来なかった理由なんだろうか? と思います。歴史書『球陽』に、その家の仕事が書かれています。それによると(これが漢文なんです)、悩ましい事に(笑)、私にしてみると原文の解釈が二通りできるんです。
 一つ目「期日を把握して馬を首里に連れて行く」
 二つ目「期日を決めて馬を首里に連れて行く」
 この二つ大きな違い分かりますか? 二つ目だと、祭祀の決定権は最高神官にはありませんよね。その家に決定権があることになります。う〜ん、悩みます。ちなみに、前に古老から聞いた話しによると、その家が出す馬は家の馬ではなく、集落中の馬を品定めして厳選した数頭の馬を、かつての王朝で繁栄した勝連グスクの重臣の末裔が騎乗し競馬で決めたようです。ちなみに沖縄の競馬は、人間でいう競歩。歩き方の優雅さと速さを競ったようです。
 県内には聖域と呼ばれる場所が各地にあります。表現は難しいですが、その力の強さというか影響は多かれ少なかれ残っていまして、付近住民の信仰の対象となっています。この本島内での最高聖域である斎場御嶽。ここが単なるパワースポットということはないと私は思います。畏怖なんて言葉使った理由は、そこに単純に入るだけで力が貰える、そんな単純なものだと私は感じていません。この御嶽は、琉球王国を成立させたという意味での御嶽。これが世界遺産に入った理由です。そして、当時の人々が、そこを聖域と定めた理由があるはずです。それを感じながら訪れると、パワースポットという以上に得るものがあるかもしれません。

【第14回】受水走水

 2012-10-18   

 受水走水。
 これは、「ウキンジュハインジュ」と発音します。これは地名で、本島南部の聖域の一つですが、かつてここから沖縄へ稲が伝わったとか。この名称も含めて、各地の地名も多くが当て字なんです。「はじめに言葉ありき」。昔からあった言葉に漢字を当てはめる。例えば、昔の沖縄の中心は首里です。そこで、南は、南の地域(南風原)はえばら。東側の台地は(東風平)こちんだといいました。
 では、北は北原……。ではないんです。沖縄では、北は「ニシ」と言っていました。ですから北は西原といまだに表現しています。
 ということで表題です。地名を漢字で判断してはいけない。となると、方言で解釈しないといけない。これはすでに、10年以上も前に提唱している方がおられますので、それを参考にします。その方の解釈によると。

  「受けられる溝。走られる溝」。

 少し分かりづらいですよね。これを今風に訳すと。

  「舟が浮かべられる澪。舟が航行出来る澪」

 沖縄の島々は、珊瑚に囲まれています。外海から入るのは難しい。そこで、珊瑚の切れ目となるのは、真水が流れる場所のみ。つまりは真水が海へ流れ出る場所。その場所が本島南部の東海岸では「受水走水」のみ。真水が流れこむので、珊瑚が生育しないのです。
 この話しは、議論が分かれそうなので、これ以上の話しはしません。ただ、縄文の昔から、弥生にかけて稲作が沖縄にも伝播したといわれますが、では「どこから?」って事となると、九州や本州から伝わったという判断は難しいですよね。
 とりあえず、沖縄だと本島南部東海岸だと神話の世界では記録に残しています。ちなみに、稲以外は、本島南部の離島である久高島に伝わったそうです。久高島には充分な水が無いので稲作は難しかったのでしょう。

 おそらく、この話を読んだ方の中には、「他にも入れる場所はあったのでは?」。そう考える方もいらっしゃると思います。
 自分は、たまたま南部の名も無い海岸に米を伝える人が漂着した……。と思いたいのですが、本島西側は、入り込める所が無い。すでに人も多く、従順させる事は難しい。ということで、手薄でいながら影響力を与えやすい東海岸選んだのでは? と思います。
 で、現在の沖縄本島。北部、中部、南部と地域を区分けしていますが、これが王国初期の戦国時代の勢力図のままです。その力関係の区分けが実はいまだに続いているのです。現代の沖縄の人からみれば、南部と北部が同じ経済力だったというのは凄いことです。

 ところで、今年。南部のあるグスクが国指定の史跡になりました。自分はそのグスクこそ、沖縄の歴史を明快にすると思っているのですが……。



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【第13回】玉陵(たまうどぅん)

 2011-12-26   

 今回は、第三代琉球国王の尚真王がつくった最後の琉球王家のお墓である玉陵です。 (続きを読む…)

【第12回】首里城(2)

 2011-06-04   

 さて、いよいよいよいよ正殿前に入ります。右手には板葺きの南殿、左手には正殿の朱塗りと同じ北殿があります。薩摩が侵攻する前は、南殿はありませんでいた。これは、薩摩統治下後の建物です。その南殿に入りましよう。 (続きを読む…)

【第11回】首里城(1)

 2010-11-04   

 いよいよ世界遺産に戻ります。今回は首里城(シュイグスク)です。ここには、守礼門(シュレイモン)があります。守礼の門と言う方が沖縄でも多いのですが、守礼門が正式名です。あとその守礼門の左側に園比屋武御獄(スヌヒャンウタキ)という拝所もあります。ここは国王も拝む場所でした。あ、書き忘れましたが、守礼門の真中を通れるのは国王だけでした。これは紫禁城でも同じだと思いますが、その他の方は右か左の方を通って首里城に入ったそうです。
 それでは城内(グスクウチ)に入ってみましょう。中国との交流が深かったので、沿道には中国の使者が残した石碑が並んでいます。そして、正殿に入る為の発券場があります。昔は士族の皆さんの戸籍を管理していた系図座(中国風の家系図を管理する場所)がありました。沖縄観光で、首里城に来た際には、正殿に向かって右側にある植物が植えてある石囲いの場所も見て下さい。ここは、首里城にとって重要な場所でしたので復元しています。
 実は、琉球国王になる為には、3つの承認が必要でした。まずは、周りからの承認。それと冊封制度の関係で中国からの琉球王国中山王という任命。で、最後は神様からの任命です。この神様は本島最北端の辺戸岬近くの岩山に、ウランサン(御傘)が降りてきます。わかりやすくいえばUFOだと思いますが(笑)。それが降りて来るそうなのです。これを確認した付近住民は早馬で、首里まで連絡したそうです。で、その神様はテレポートしながら、いくつかの拝所(ウタキ)を通過し、最後には、首里城の先程の拝所に入ったそうです。
 で、そこに琉球王国の最高神官である聞得大君(キコエオオキミ)が行き、そこで神様が乗移り、正殿に入り国王を任命したそうです。沖縄の歴史で、この任命が受けられなかった国王は一人だけです。それが、第二代国王尚宣威(ショウセンイ)です。彼はショックで、半年程で亡くなりました。その時神様が任命したのが第三代国王尚真(ショウシン)です。彼はすごい名君となり、沖縄初の黄金時代を作ったと言われています。
 最後に正殿に入ると真中の部分は浮道(ウキミチ)といわれます。ここも国王以外は通れませんでした。横にある赤煉瓦みたいなものは、正月に各地の領主がそこに参内し、国王から杯をもらう場所にもなってました。もちろん。一般住民は、発券所の所までしか入れませんでした。
続きは、次回に。


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【第10回】脱線ついでに…古い風習や習慣を少し

 2010-07-21   

 今回は、もう自分の世代でも分からない風習や習慣なんかについて書いていこうかと考えています (続きを読む…)

【第9回】浦添城跡(うらそえじょうあと)

 2010-06-19   

 今回もまた世界遺産から脱線した話しをしたいと思います。
 浦添グスクは、現在の浦添市の丘陵部にあるグスクです。実は伝説に近いのですが、沖縄最初の王統は日本で言う古事記のような話しからはじまります。沖縄ではアマミキヨとシネリキヨという2人の神様が天帝の命で沖縄の島を作ったようです。でも、人間は居ませんでした。そこで、2人の神様は天帝に再度お願いし、天帝は自分の子2人を与えました。その2人が三男二女を生みました。
 そこで、長男が国の王(天孫氏)、次男が按司(あじ)、三男が百姓の初めとなりました。さらに長女は最高神官である聞得大君(きこえおおきみ)、次女は村々の神官になったそうです。そして、この天孫氏の時代がなんと1万7千年続いたそうです。

 しかし、12世紀末、その27代目の王を家臣の利勇(りゆう)が殺してしまいます。そこで当時人望の集めていた浦添按司尊敦(うらそえあじそんとん)を総大将として周辺の按司が集結し、利勇を滅ぼし国王となりました。これが初代琉球王統の初めです。

 実は、この尊敦の父親が、源為朝なんだと言われています。為朝は保元の乱で敗れ、伊豆大島に流されました。ところが10年後青ヶ島を征服した帰りに台風に遭遇し、舟の帆柱も折れ漂流します。船員が焦る中、為朝は「人の運は天が決める事」と慌てなかったようです。で、漂着した島が流れ求めた島なので、琉球。たどり着いた入り江は運を天に任せて付いたので運天という地名になったそうです。
 その後、為朝は南部大里の按司の娘と恋仲になり男の子が生まれました。で、為朝は本土に戻ろうとするのですが、舟をいくら出しても、上手く進めない。船頭は、「女が船に乗っているので竜宮神が怒っているんだ」と。そこで、泣く泣く為朝は妻と子供を残し帰っていったそうです。

 その後、母子は、迎えに来るのをずっと港で待っていたようです。そこで、待つ港→待ち港→牧港。となったようです。こんな話しは地名学というようですが、自分は興味があります。今回紹介した浦添は、「浦々まで襲う」という説が主です。でも、自分は、勝手に恩師としている仲松弥秀先生の「浦々までウスユン」(島々全体を雌鳥が卵を温める様に抱いている)。という説の方が好きです。地名学って、結構面白いですよ。その後王都となる首里を中心に、南側は南風原。少し東側は東風平。で、北は西原。(あ、沖縄では北の事をニシというんです)。

おそらく皆さんの周辺でも。そんな地名の解明ができるかもしれませんよ。


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【第8回】中城城跡(なかぐすくしろあと)

 2010-01-17   

 前回紹介した勝連城跡と相対し、琉球史並びに沖縄演劇でも度々登場するのが、この中城城跡です。このグスク全体が護佐丸によって築城された、と思っている方が実は県内でも多いのですが、 (続きを読む…)

【第7回】勝連城跡(かつれんじょうあと)

 2009-09-11   

 勝連城跡は、勝連半島の付け根付近の現うるま市にある城跡です。日本で言えば鎌倉の頃からの遺物等も残っていますので歴史は古いと思います。またこの城跡は琉球政府時代から発掘が始まっているので、沖縄の中でも古くから発掘調査されてきた城跡です。 (続きを読む…)

【第6回】護佐丸(ごさまる)周辺

 2009-07-25   

 ここで、少し護佐丸という人も含めて歴史関係をまとめてみます。

 沖縄初の統一王朝は事実上、第一尚氏の第二代国王尚巴志(ショウハシ)によって統一された第一尚氏(15世紀前半〜15世紀末)です。 (続きを読む…)

【第5回】座喜味城跡(ざきみじょうあと)

 2009-07-05   

 世界遺産に戻りましょう。今回は、座喜味城跡です。

 このグスクは、沖縄の歴史上最高の築城の名人と言われた護佐丸(ごさまる)が築いたと言われています。護佐丸って名前は、なんとなく日本風の名前で、珍しいと思います。 (続きを読む…)

【第4回】尚家の三刀(2)

 2009-06-18   

 おそろしく、脱線してしまいました(大汗)……。どうせ脱線したので、脱線ついでの今回です(笑)。 (続きを読む…)

【第3回】尚家の三刀(1)

 2009-06-01   

 尚家とは琉球の国王一族の事です。

 沖縄では、かつて人の名前が三つ存在しました(ややこしいことですが)。
 まずは童名(ワラビナー)これは元服前の名前です。さすがに私にはありませんが、父は亀寿(カミジャー)という名前があります。 (続きを読む…)

【第2回】グスクって何?

 2009-05-15   

 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、琉球王国の成立とその特徴について、キーポイントとなる物件が指定されています。ですから、物件の一つ一つを語れば、それが王国の歴史を語るという事になると思います。話によれば、色々な遺跡が候補になったようですが、最終的には本島内の史跡が指定されています。ちなみに北からその史跡を紹介すると、「今帰仁城跡」、「座喜味城跡」、「勝連城跡」、「中城城跡」、「首里城跡」、「園比屋武御嶽石門」、「玉陵」、「識名園」、「斎場御嶽」となっています。今回は世界遺産の一つ。今帰仁城跡について話したいと思います。
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【第1回】はじめに

 2009-05-12   

 このコーナーでは、沖縄の文化財について思いつくままに書いてみようかと思っています。本来なら、歴史的学術的に書いていかないといけないのかもしれませんが、あくまでも自分の気の向くまま書いてみます。ですから、専門的な期待はしないで下さい。このコーナーでは私が、話したい相手に向かって話している形をとりたいと思います。
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