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文化を楽しむ出版社

【第10回】オーケストラ・アンサンブル金沢 第302回定期公演フィルハーモニー・シリーズ

 2011-05-28   ,

オーケストラ・アンサンブル金沢  第302回定期公演フィルハーモニー・シリーズ

    日時:2011年5月25日(水)19:00開演(18:15開場)
    会場:石川県立音楽堂コンサートホール
    指揮:アレクサンダー・リープライヒ
    曲目:
      ペルト/レナルトの追憶に
      ハイドン/交響曲第98番変ロ長調
      ルトスワフスキ/葬送曲(バルトークの思い出のために)
      ハルトマン/交響曲第4番

ミュンヘン室内管弦楽団の芸術監督として活躍するドイツの指揮者、アレクサンダー・リプライヒを迎えての定期は、当初の演目から若干の変更が加えられ、一緒に来ていた友人ともども「渋い」選曲というのが一般的認識だったようです。

アルヴォ・ペルトの《レナルトの追悼に》では、中低域を中心として、分厚い響きが聴かれました。そして作品を通して、静寂の中から立ち上がっては彼方へと消えていく、そんな感覚でしょうか。ペルトの近作ということで、しっかりと浸れる作品といえるかもしれません。リプライヒのタクトは、しっかりと拍節を与えながらも、作品の持つ柔らかな質感と強い訴えを、リラックスした手の動きで表していました。

ハイドンの交響曲第98番においては、チェロとコントラバス以外のオーケストラ・メンバーは立奏となり、初演時に従ってチェンバロが最後に短く加わりました (曲の冒頭からずっと舞台下手でスタンバイしていらっしゃったチェンバロ奏者を、こちらはついつい眺めてみたり)。今回のように立って演奏しますと、ティンパニの音の上から弦楽器が聞こえてくるような感覚を覚えます。指揮も立っている奏者たちに指示を出すようになりますから、必然的に肩よりも上の方を使う、大きな身振りになりますが、ペルトと違い指揮棒は使わず、体全体で、時にはまるで踊るような感じにもなっていたようでした。ただ、大きなゼスチュアだから大雑把というわけでもなく、楽譜の隠れたフレーズまでも、逃さずキューを出すという強い意志もあったように思います。

一方で、物理的に音響が多少違うという以上に新鮮な響きがしたかというと、意外にこれも難しいものがあったという印象もあります。おそらくリープライヒ氏の解釈が、これまでの慣習から大きく離れるものでなかったからなのかもしれません。とはいえ、作品そのものは前述した第四楽章はチェンバロが出る以外にも、既成の形式・様式をさりげなくぶち破るような仕掛けがあちこちにあり、ハイドンの隠れた実験精神が垣間見られる一曲であったといえます。

後半はルトスワフスキの《葬送曲》から。タイトルにある「葬送」をどの位まで作曲者が文字通り音にしようとしていたかは知らないのですが、「歩み」の意識をギリギリまで保持しながら、全員によるトウッティに至るまで気の抜けない音のエネルギッシュな運動があったように思います。その張りつめたような、渾然一体の、迫真の音の連なりには圧倒されました。終息に向けて沈みゆくオケの姿に聞く余韻にも心に深く残るものがありました。アレアの手法を取り入れていく前のルトスワフスキの名曲を、この北陸で生で聴けたのも収穫だったといえるでしょう。

ハルトマンの交響曲第4番は、細部にリリシズムを宿しながら、ぎりぎりのところで自由な無調音楽の様相を残しているように思えました。また時には、より大きな流れに身を任せるところもあり、聴き手に多様な反応をもたらしそうです。第1楽章では、ヴァイオリンがはちきれんばかりの、息を吹き入れつつある風船が今にも割れそうになっているような膨張さえありました。第2楽章は弦楽オーケストラがこんなにも鳴るのかと驚くほどの、獰猛(どうもう)な音の運動。スケルツォの迫力が一丸となって襲ってくるかのようでした。最終の第3楽章は、短いながらも、滔々(とうとう)とした叙情性さえ隠し切れない大きな世界を見せ、息の長い展開をしました。第1楽章に通ずるところがありますが、よりデリケートで瞑想的だったと思います。

総じてリープライヒは室内オーケストラという媒体に通じている印象を持ちました。特に今回は20世紀作品を中心とし、しかもハイドン以外はすべて弦楽合奏のための作品ばかりだったこともあり、管楽器なしのオーケストラが、かくも豊かに力強い表現力を持っていることにも大いに感心させられた、そんな一夜だったといえるでしょう。

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